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一人よがりの自己完結をせず、目の前の相手に思いをぶつける。その先に光がある。

こんにちは、れんげ舎note編集長の志摩です。

「生き方開発lab」の開発室で本を読んで調べる機会が増えているのですが、私は本を読むことが苦手です。目では読んでいても頭に入ってこないことがあり、読んでは戻りを繰り返すので、とても時間がかかるのです。

でも考えてみたら、「言葉の意味はわかるけれど、頭には入ってこない」ことって、本に限らず会話でもけっこうあるなと気付きました。


言葉が通じない、聞き取れない

20歳の頃、イギリスに1年間留学していたことがあります。海外には1回しか行ったことがなかったし(しかもハワイ!)、英語も決して成績がよかったわけではないのですが、とにかく興味はあったので軽い気持ちで留学を決めました。

どうせなら日本人がいないところがいいなと思い、選んだのは海沿いの小さな田舎町、マーゲイト。夏前だったこともあり、留学先の語学学校に着くと日本人は私ひとりでした!

喜んだのも束の間、中学教科書に出てくるようなお決まりフレーズしか話せないうえに度胸もない私は、黙りがちになってしまいました。でも、私と同じような境遇なのに明るい台湾人の女の子と仲良くなれたおかげで、徐々に周りの人とも打ち解けていきました。

約20年前のフィルム写真たち…

「言葉が通じない」「聞き取れない」を繰り返す中で、強く感じたことがあります。それは、「会話には、こんなにも瞬発力が必要だったんだ!」ということです。会話はその時その場に身を投じることでしか味わえない、ライブなのだと知りました。

「脳内で変換しない」というトレーニング

はじめのうち黙ってしまうことが多かったのは、もちろん相手の言葉の意味が分からなかったからです。でも、そうすると、会話もその場でのかかわりも終わってしまいます。

留学における大目標はなかったとはいえ、わざわざイギリスまで来て1年間このままではキツすぎると思い、とにかく少しづつでも声を出したり、些細なことでも話しかけたりすることにトライし始めました。

そうすると、言葉は通じないのに、コミュニケーションが生まれたのです。ジェスチャーや絵、漢字が読める国から来ている人とは漢字を書いたり、その場その場でなんとかやりとりをしました。

最終手段は辞書なのですが、自国の言葉に置き換えられてしまうと、かえってニュアンスが上手く解釈できないこともあることを知りました。さらに、会話をするときにも頭の中で「翻訳」というワンクッションが挟まるために、瞬発的に言葉を出せなくなります。

先生たちからのアドバイスもそれを裏付けていました。「出来るだけ辞書は使うな。翻訳せず、英語は英語として使うように」と散々言われました。

とにかく言葉を発すれば距離は縮まった

頼るものがなくなると、相手の言葉の中でわかった部分だけを拾い出して、とにかく返答するしかありません。もちろん、的外れな返答になることもしばしばです。はっきりと「(言ってることが)わからない」と返されたこともあるし、「どんまい!」と流されたことも…。

それでも、言葉を発することで、人間同士の距離が縮まるのを感じました。語学学校だったので英語が話せないのはお互い様ですし、話せない・聞き取れないことに対して責める人はいません。分からなさすぎて気まずい空気になることもありましたが、それはその瞬間だけのことで、引きずっていつまでも気にしてる人はいない様子でした。

帰国してからのショッキングな体験

そんなこんなで、簡単な日常会話はなんとか英語でできるようになったものの、リスニングが苦手で、会話には常にもどかしさがありました。

「帰国したらこんなもどかしい思いをせず、自由に話せる…!」

そう思うと、日本に帰るのが楽しみで仕方ありませんでした。

帰国後、実家暮らしとはいえ無一文になったので、とりあえずアルバイトを始めました。バイト先で初めて会う人たちと普通に会話をし始めたとき、私は大きなショックを受けました。

「あれ…? 言葉の意味は分かるのに、何を言っているのか分からない…!!!」

それは、とても不思議な体験でした。バイト先で働いている人たちは、みんな日本人です。母国語である日本語で会話をしています。留学中は、「英語が分からないから、話している内容も分からないんだ」と思い込んでいましたが、帰国してみると言語は分かるのに、何が言いたいのか分からないのです。

言葉を発していても会話はしていない

働くのが好きそうな子から、なぜか「仕事だるいよねー」と共感を求められたり、「あのー、これ…」と何か尋ねたそうに話しかけてくるのに発言が途中で止まったままだったり…。発言の意図や、相手の意思・感情が見えないのです。

留学先の母国語がバラバラの人たちどうしのやりとりは、「相手に伝えよう!」という意気込みみたいなものがありました。それがないせいなのか、相手の感じが分からないのです。話しかけられても、本当に私に話したいわけではなさそうです。言葉を発している人たちも、誰に向けて発言をしているのか曖昧な場合が多いことにも気付きました。

言葉は宙に浮いているようで、誰かから誰かに届ける役割を負っていないのです。状況から選び出された定型文。テンプレの会話。人の存在感まで希薄に感じられました。

本当に思ったことを言う大切さを再認識

帰国して年月が経過すると、そうした状況にも慣れて、適当に会話を合わせられるようになりました。次第に、会話する時の私の違和感も薄れていきました。

でもそれは、ちゃんとまっすぐに話せる友人や同僚がいたからだと、今は分かります。そういう場があったから、耐えられた。宙に浮いた会話しかできない人生になってしまっていたら、どれだけ辛かったろうと思います。

私にとって、私が所属しているれんげ舎のコミュニティは、まっすぐに話せる場として機能しています。そもそも、れんげ舎は一貫してそれを重視して活動している団体です。

会議に「自分不在の発言」や「借りものの言葉」が出てくると、メンバーからはすぐにツッコミが入ります。なかなか、そういう場も珍しいなと思います(笑)。

でも、それってとてもありがたいことです。なぜって、会話は本と違って引き返せないからです。

その場で、瞬発力を発揮して思ったことや感じたことを表現しないと、そこにある思いや言葉は闇に沈んで、もう表の世界には出てこないかもしれません。

会話はその場限りの即興音楽

英語の先生たちからは脳内で翻訳しないことを教わりましたが、れんげ舎では、脳内で自分なりに咀嚼しすぎないことを学びました。言語の問題だと思っていたけれど、人とのコミュニケーションにおいては「翻訳」と「咀嚼」は同じことなんだと思いました。

会話はライブ。その場でしか聞けないその場限りの音楽のようなものです。考えて捻り出された言葉ももちろんあるけれど、大抵は発している本人だってとっさに出している言葉です。それに対して返答することで会話って成立するし、言いたかったことや自分の思いが見えてくるんだろうなぁと思います。

持ち帰って自分なりに解釈や理解をすることも大事だけれど、目の前に相手がいる時や、場に自分が存在している時は、とにかく「今」を見て、感じて発信することのほうが、ずっと大切だと思うようになりました。そうすることで、リアルな場、リアルな自分になっていく感じがあります。

一人よがりの自己完結をせず、目の前の場を信じて相手に思いをぶつける。その先にこそ光がある。私はそう信じています。






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