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自治って文化(対談:主催者教育⑤)

【連載対談:みんなでつくる主催者教育】
連載1本目:対談について+「主催者教育」について私たちが考えたこと
連載2本目:主催者が一番ご機嫌
連載3本目:場の均質化の問題
連載4本目:万能な場は存在しない
連載5本目:自治って文化
連載6本目:主催者の知恵を集めていこう



森:
さっき、長田さんがサラッと言っていた、「自治の話だと思うんだけど」というのはどういう意味なのか、もうちょっと聴かせてもらえませんか。

長田:「自治」ってね、ものすごく簡単に言うと「みんなでやる」っていうことなんですよ。

自治は瀕死の状態

長田:「みんなでやろうね」って集まって何かしても、「みんなでできた!」と思えないことってありますよね。誰かから指図されたり、話が変わって「聞いてないよ!」ってなったり、支配構造ができてしまったり。自治のない集団はそうなりがちなんです。

日本社会ではこの30年間ぐらいで自治は瀕死の状態、ほぼ不毛の状態まできています。自治って文化だから簡単に復活できないんだけど、表面的には「みんなでやろう!」って言いながら実は誰かが牛耳ってるとか、「それぞれ自由にやっていいんですよ。」って言いながら、実は支配したり課金させたりしてるとか、エセ自治が広がってきています。エセ自治は、子どもたちに向けた"教育的"な場でも散見され、由々しき問題です。

さっき森さんがおっしゃっていた、私達の集まりで、基準とかこれでいいものってどうやって決めたらいいんだろう、とか、話し合いもどこまで行ったらちゃんと終わりって言えるんだろう、っていうときに、はっきりした基準がないのって、レベル感としては2段階あるんです。一つは、誰がその話し合いに参加していいのか、あるいは自治のシステムがあるんだったら、誰が1票を持ってるのかっていう、そこの考え方や自治の体制がありますか、っていう第一段階。

第二段階は、基準はあるんだけど、話しているとこんがらがっちゃってわかんなくなっちゃうんだよね、っていう、まさにその会議の場の話であったり、運営の場のいろんな知恵の話。今は自治というベーシックな部分がごそっとなくなり空洞化した土壌の上に、ワークショップファシリテーションとか、コミュニティマネジメントとか、手法レベルのものがたくさん出てきている。それらが実を結びにくいのは無理もないことなんです。いろいろな人が思いを込めて動きだそうとしていて、それでも居場所がない人たち、居心地の悪い嘘っぽい場が増えている。

それに対して、みんなで何とかしようぜ、ってのが自治。複数の人たちで、話し合ったりものを決めたりして、新しい現実をつくっていく、その取り組みのこと。
みんなでやるための知恵、方法論、考え方も含めたものがというのが自治です。

森:今の話を聞いて思い出したんですけど、昨日ちょうど教育関係の方と話をしていて、その方も似たようなこと言ってたんです。今、論理的思考とかそっち系のことをみんな学ぶと、結構子供たちも、意見出しましょうって言って教室の中で意見出し合いをいっぱいやってる。だけど、「なんでその人はそう感じたんだろう?」っていう、その意見の背景となっている感情に触れるとか、その人の、その考えに行き着くまでのプロセスに触れることはほとんどやらない。そこを想像する時間は取らない。多分意見はそれなりに出たり、最終的には、黒板とかに書いて、こんな意見でましたねっていうリストはできる。でも、時にはその意見は既にその教室にあるパワーバランスに引っ張られていることもあるし、気持の部分や何故その意見を思ったのかはないがしろにされてしまうことがある。だから、本当は自治って言ったときになくなってきてしまっているのは、方法論ではない、感情の部分とか、背景への価値づけみたいのがなくなってきてるのかな、って思ったんですね。

ファシリテーションの毒

長田:みんなが意見を出したらそれでいい、みたいな単純化が起こってるんですよね。自治がないとそうなる。例えば、ワークショップ。ファシリテーションが入って来て、好ましい変化が起きた一方で、何でもそうなんだけど、毒も回りました。これは何でもそうですけどね。今はその毒がよく作用している。一昔前の日本に多かった、形式主義的な場、最初から最後まで流れがガチガチに決まっている会議とかあるじゃない。偉い人から順番に座ってさ、もちろん、結論はやる前から決まっていて。発言する人だって限られていました。それに対して、全員の声を集めるとか、リラックスした雰囲気づくりをするとか、その時に出てきた流れに任せるというような考え方は、アンチテーゼとも言うべきものです。
 でも、やっぱり根っこでは形式主義から抜けきれていなくて、ワークショップ的形式主義とも言うべきものが横行していますよね。とにかく最初はアイスブレイクから始めるんだ!絶対にそうすべきだ!みたいな(笑)。それで、付箋紙と模造紙を大量消費するのが当然になってしまって、でも、例えばそこに書かれている声が、その人の心からの声なのかどうかという、一番大事なことを重視できなかったり、声を集めても実効性のある意思決定につなげられなかったりして、その場だけの出来事になっちゃう。

安達:確かに。意見を出したのに、そのまま放置されて、「あれどうなった?」みたいなことは参加者側からしても当たり前になってしまっていますね。

長田:「素晴らしいご意見で、ぜひ参考にしたい!」って言われましたけど? その後は? とか。

安達:誰かに意見を吸い上げられて、その後はその人はもう介在してないってこともあるわけで、そっから先も一緒にやるプロセスを組んでくれたらいいなと思います。ワークで付箋を貼るところまでは周到に組まれてるけど、それを取りまとめるとか、次に繋げるところを、もうちょっと頑張りたいところですよね。

長田:自治への理解も必要だし、ああいう場をつくるのって、実はかなりの力量がいるんですよ。

安達:設計できる人ね。

長田:一票を持っているのがだれなのかがはっきりしないままで、高度な手法を使うのは、滑稽でもあるし、すごくもったいないことでもあると思います。

安達:そう考えてみると不思議な場ですね。それもね。

長田:うん。よく成り立ってるなっていう。

安達:でも成り立ってるんですよね。あれはあれで成り立ってて、参加した感もあるし、こういうものに参加している私っていいかも、みたいな感じのちょっと高揚感もあったり。それがある意味では、毒って仰ってるものなのかもしれず、気づけば主催者マインドを持たずに参加してしまっていることにつながっていそうですね。

長田:がっつり話し合うためのファシリテーションなんだけど、割とこういうファシリテーター多くない?こういう、ちょっと年上の人たちがいるときに若いファシリテーターが入ると、前で手を組みたくなる。

安達:なるほど。

長田:何かご用がございます?これなのよ。取り入っていく。だから、そう、もうガチで向き合う身体じゃないんだよね。ちょっとこんな話はあれかもしれないけど。亮さんが言ってた通り、形だけの主催、形だけの場みたいなものって出てると本当につまらないんだけど、そのつまんなかった人たちも、つまらない場に出てるって思われたくないし。

安達:そうそう。

長田:最後に感想をぐるっというときなんか、もう大喜利状態で(笑)。

安達:ちょっと悔しいもんね。つまんない場に行って「つまんない。」って。なんで俺そんな場に参加する選択したんだろうってなるから。

長田:逆に思い切り笑顔で一緒に写真撮っちゃうみたいな。

安達: だから「いい場だった!」ってね。

長田:ある種の共犯関係があるんですよ。参加者も主催者もいい場だったということにしたから。

安達:うん。

調べたり検索したりせず、自分なりの方法で

長田:何らかの社会的メリットあるいは世の中の問題意識も含めて言っておきたいことはありますか?

安達:ネット検索は良い使い方をすればいいとは思うんですが、頼りすぎるのはあんまり良くないなって思ってます。一回自分で考えてから検索するなら分かるのですが、はなから検索頼みにしてしまうと自分らしさがなくなってしまうように思います。特にフレームワークとかモデルとかを検索してしまうと、自分らしさが枠に閉じ込められるように思います。誰かの知見が先にあったとしても、その知見の裏にある背景、思いみたいなものは乗っかってこない。自分で何も考えてない状態だと自分らしさを表現する質が下がる気がします。

そういう意味では、場を主催するときにも、まず自分でやりたいことがあって主催したいと思ったら、やり方を検索せずに、自分なりの方法でまずやってみる。だからこそ失敗が生まれて、その失敗から学びや改善が生まれて、ステップアップしていく。小さい主催の場がが積み上がれば大きな主催の場になっていくと思います。なので、全部人に聞かないで、ネット検索しすぎないで欲しい。「自分らしさ」というのキーワードをコモンビートも大事にしてます。自分らしさは自分の中にあるはずで、ネット検索しても出てこない。絶対。(笑)

長田:答えは自分の中にある!

安達:最近そんなことばっか言ってるから、そういう発言になっちゃいますけど(笑)、本当は皆さん分かってるはずじゃないですか、自分のやりたいことは自分の中にあるって。
だから自分らしさを探す方法とか検索しないで欲しいなと思います。主催をするときの、成功させたいっていう強い思いに人が繋がり場が生まれ、参加してくれる人たちに対して責任を持って場を作りたいって思えるようになる。自分がやりたいと思ったことに自分らしさは全部紐づくと思うので、それを失った状態でやってしまうと、中身のないものになる。自分から湧きあがってきて突き動かされるほどにやりたい!っていうのが大事ですよね。それって現代社会のなんでもインスタントにしちゃう感じだったり、あまり考えずになんでもコピーしたりしちゃうことへのアンチテーゼのような気がしますし、社会をつくるという一市民としての考え方でもあるなと思います。

長田:森さんはどうですか。

森:今の話を聞きながら主催っぽいけど、主催の間にある言い表せない違う部分は何だろうなと思いながら聞いてたんですけど、ちょっとわかんないんですね。

長田:それをこれからやろうって話ですしね。

無意識に自分が背負っているものおろす

森:今ちょっと思ったのが、世間一般的に普通こうだよねとか、当たり前だよねなどという社会的に刷り込まれるものがあり、ずっとみんなそのリュックを背負ってて、自分もそこになんとなくフィットする肩の感じになってる。あまりにも長く背負ってるからそれに気付かない感じにはなっていると思うんですよね。

でも、社会的に自分が背負っているものをおろす場が必要だったり、背負ってることに気付くような場がもっと必要だと思います。あとは、私の今の思考って当たり前に縛られていたんだっていう気づきがあるとすごい楽になっていくと思います。ずっと引っかかっていたものがスーッと見えてきたり、モヤモヤした部分が整理される。そういう場がふえると生きやすくなる人が増えるんだろうなと。

絶対見せまいとしていたものや、ずっと 心に押し込めていたけれど開けてしまった、もしくは開いちゃったっていう瞬間があるワークショップって場のまとまりはなくても、みんなそれを家に帰ってもずっと考えているとか、引っかかり続けるみたいなのがありますよね。そういう引っかかり続けることが何らかのアクションに繋がったり、誰かの後押しになったりするっていうのはゼロイチのさっきの話の出発点になる気がするんです。心の蓋みたいな話もあるのかなっていうのが2つ目に思ってたことです。よく頼り合いましょうとか言われますが、それってすごい難しいと思います。でも主催者教育が増えてくとしやすくなるのかなとは感じてるんですね。なぜどうやってはちょっとこれからとして。

長田:自覚なく、背負ってしまっているものってたくさんありますよね。

森:私には忘れられない、とある方が言ってた言葉があって。「自分が誰かを頼るためには、win-winの関係じゃないと頼れない」と。自分に何かgiveできるものがあるっていう自信がないとtakeができない。頼って、その後頼られたときに自分が何もお返しできないと思うと頼れないっていう感覚って、多くの人が持ってるんじゃないかなと思っています。でも誰かを頼りたい時ってその時点で既に力がそぎ落とされてる場合が多いので、なかなか頼れない。このジレンマをどうやって越えられるんだろうなっていうのをずっと思ってます。さっきの主催者が増えていって選択肢が増えていくと、「win-winの方程式が成り立たないと頼れない」というのが変わってくんじゃないかなって気がしています。

長田:僕は、win-winという言葉、好きじゃないです。本気で言ってんの?みたいに思う。視野が狭くなることによって成立する考え方ですよね。自己正当化ワードですよ。その場ですぐに相手に返せることなんて、そもそも大したtakeじゃないですよね。別の時間に、別の場で、別の相手にだっていいはずです。

主催者精神とは自分で勝手に始めること

長田:権利を主張するのではなく、自分の責任で勝手に始める、主催者精神ってそういうことだと思うんです。パブリックの一員として自分がいるわけだから。例えばね、酔っぱらって歩道で寝てるおじさんがいて、なんだか身なりも汚いし、正直ちょっと気持ち悪いなと思うとするよね。でも、冬だし、寝返り打って車道に出ちゃうと車にひかれて死んじゃうかも・・・と思ったときに、自分がそれに気づいた以上、足でもいいから仕方なく起こそうとするのが、自治的な振る舞いだと思うんですよ。

安達:うん

長田:善悪の問題じゃなくて、自分さえスイッチを入れれば、自分の関与できる範囲は意外に広いんだということに、主催者という立場に立つと気付かざるを得ない。さっきの亮さんが言っていたことに森さんが答えた話でもあったんだけど、現実はここからここまでだと思ってたのが、違う現実にシフトする場合もあるし広がる場合もある。人によって違うと思うんだけど、蓋が開いちゃうとか今まで閉じ込めたものが出てくるっていうのは新しい自分、新しい現実、新しいモードに触れていくっていうことだと思うんですよ。

長田:ただ、主催者ではなく参加者としてそういう新しい景色に触れた場合、それを維持するのは非常に困難なんですよね。継続して誰かがその場を提供してくれているなら、そこに通い詰めればいい。でも、そうでない場合、主催者側にまわって場を作ることが出来ます。

安達:作れますね。コモンビートを卒業したメンバーが、主催してよさこいチームを作ったり、合唱団作ったりとか、コモンビートの中からいろんな主催者が生まれています。その現場に足を運んだことはないですが、活動風景とかの写真が上がってくると、コモンビートと同じような雰囲気が見て取れるんですよね。

多分、コモンビートに参加した時に感じたものを自分なりに捉えて、何らかの場づくりに活かしてくれてるんだと思っています。主催者が違えば場の雰囲気も違うものになってあたりまえですが、コモンビートの卒業生がやってるんだったら大体同じ雰囲気で、自分を出してもよさそうだなという安心感があると思います。

そういうものが世の中に広がっていくと、いろんな場があれば、どこかでは自分を出して大丈夫な場に行けることになる。コモンビートのミュージカルは100人で100日間やるので、参加することは人生においても結構大きなことです。これに毎回参加するのが難しい場合、小さめの場がたくさんあることはとても大事だと思います。でも大小問わず、ちゃんとした主催者教育の考え方で運営されてることが求められるんじゃないかと思うので、この考え方が広がっていくのはコモンビートとしても面白いなって思います。コモンビートだけじゃ社会は変えられないなと思ったときに、主催者教育によって主催者が増えるのは仲間が増えるということなので、いい流れになりそうですね。

*次回は8月21日(水)に更新予定です

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