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主催者が一番ご機嫌(対談:主催者教育②)

【連載対談:みんなでつくる主催者教育】
連載1本目:対談について+「主催者教育」について私たちが考えたこと
連載2本目:主催者が一番ご機嫌
連載3本目:場の均質化の問題
連載4本目:万能な場は存在しない
連載5本目:自治って文化
連載6本目:主催者の知恵を集めていこう


主催者になるメリットとは?

長田:まず主催者になるって何がいいのっていう話をしたいんですよ。主催者になることのメリットや意義ってなんでしょう?

安達:いっぱいある気がしますけど、逆に言うと主催者じゃない場に行ったときのなじまない感がありますね。居酒屋とかの例で言ったら「いや本当はこれが食べたかったのになんでこのコースなんだよ」みたいに。でも、「幹事がそうやって決めたからいっか」ってなると思うんですけど、なんかどっかに違和感を感じてしまう。もちろん話は楽しいんだけど、出てくるものがつまらないみたいな感じになったときには、やっぱりどっかで顔に出ちゃってたり。

そんな風に主催者の真意と参加者の雰囲気がずれていた時にマズイと思うんです。だから僕は自分から全部作ってしまうことが多い。メリットはもう「自分が一番楽しくいられるでしょ、一番ご機嫌にいられるでしょ」みたいなところですね(笑)。

長田:主催者が一番ご機嫌でいられる。

一同:(笑)

安達:主催者がご機嫌でいられる場って絶対輝いているはずとも思います。

長田:そうですよね。よく場づくりも「どうやったら場が良くなりますか」と聞かれるんだけど、「主催者の人が楽しくやってることです」と答えています。森さんはどう思いますか?

ゆるい関係が苦手、意見も持てなかった

森: 私、雑談が苦手だったんですよ。今もそんな得意じゃないんですけど、「ゆるい関係」とか言いつつ、その関係作りがすごく苦手だったんです。

仲間とか、いい関係とかを作っていくのがすごく苦手で。でも自分が主催者になると、文化祭みたいにそこに向けてこういうのを作りたいなっていうのがみんなの真ん中に登場してくるんです。ああでもないこうでもないとみんなでコネコネしているうちに、お互いを見てるんじゃなくて、みんなで同じものを見ながら、いつの間にか関係性ができている。私にとっては人との関係って、作為的ではなくいつの間にか関係性が構築される方がずっといい感じだと思っています(笑)。

こまちぷらすの話をすると「子育てをまちで」と言ってますが、それはいきなり街中とか公園で「仲良くなりましょう!」っていう話じゃないんですね。私は正直街中で急に仲良くなれる感じがしませんでした。でも例え小さなことでも、誰かと一緒に何かを作っていると、その作る過程で、お互いの違いは些細なことに感じるようになって、その違いが逆にいいよねとなっていく。そう変換されていく方がずっと健全でいいと思っています。

あともう一つ。昔、意見が持てなかったんですね。例えば教室で、「どう思いますか?」って当てられたときに、「はい!」って手を挙げられるほうではなかった。逆にあてられたらどうしようって思っていて、とりあえず「答え」っぽい事は言ってみるけど自分がそう思っているか分からない。何かしっくりこない自分、空っぽな自分、何か不一致な感じの自分。

でも、徐々に何かすっごく小さなことをやる側主催する側になっているうちに、少しずつ「できた」ってことがゆっくり積みあがってその先に「こう思う かもしれない」ことが言えるようになる。それもびくびくしながら。でも「それすごく大事な意見だね」とか、「それでやってみようか」と言ってもらうことが増えて、意見を言うのってなんか心地悪くないなと感じるようになりました。段々と私という輪郭が、ちょっとずつ自分にフィットしてくる感覚です。「主催者になること」のメリットはそういうことかなって思いました。

主催者になると自分の輪郭がはっきりしてくる

長田:主催することを通して、自分としての輪郭が次第にはっきりしてくるということですね。だれかが何かを話していても、すごくもっともらしいちゃんとした内容なのに、聞いていられないなと感じることがあります。テンプレート化された意見だから、先が分かるんですよね。テンプレートを使ってやりとりしている。これも「上滑り問題」と繋がりますね。森さんが先ほどお話しされたことで言えば、森さんの心身が不一致な感じをキャッチして、「私はそっちには乗れないです」って。居酒屋のコースで「なんだ、飲み放題は発泡酒かよ」みたいな。

安達:ビール入ってないのかみたいなね(笑)。

長田 :みんな「なんかちょっと違う」「しっくりきてない」っていうのってすごくあるはずなのに、それを正直に言わないんだよね。勝手にテーマを決められて意見を求められても、「意見がないっていうのが本当の意見」ということもありますよね。

「やりたいことは?」って酷な質問かも

長田:よく「やりたいことは何ですか?」っていう質問がありますよね。いくつになってもその質問にさらされる世の中になったと思うんですけど。「主催するんだったら、やりたいことを主催してください」と言われても、困っちゃう人もいますよね。

安達: 僕は、やりたいことは、そのときにあるかないかっていうだけの話なので、あるなら答えればいいし、なければないで良いと思います。アイディアが枯渇する瞬間ってあるじゃないですか。どんなにアイディアが豊かな人でも、一瞬、無いっていう瞬間があると思う。沸いてこないなら、もうしょうがないねって。自分らしくやるには、出てくるものでやっていかなきゃいけない。

長田: 無理にひねり出すと、やっぱり上滑りしたり嘘っぽくなったりするんですかね。

安達: そうですね。やらされてるに近い。

長田: なるほど。ひねり出している人、多そう。森さんはどう思います?

森: 「やりたいことはなんですか?」っていう質問は結構酷だな、と思うときはあって。でも無意識にやってるかもしれないですけど。質問していたらどうしよう(笑)。

長田: こまちの研修とかで(笑)。

森:大丈夫かな(笑)。
でも、例えば、こまちカフェにお菓子の工房があるんですけど、型を抜いたりとか、こねるとか、丸めるとか、もしくはシールを貼るとかは、やってみたいかも。っていう感じで「やりたい」はある。「企画をやりたいです。」ということではないけれど、そういう作業に触れてみたいとか。

長田: 動詞なんですね。

森: はい、動詞。いろいろある中で、これだったらできるかも、とか、今の私でもできるかもとか。

やりたいっていう気持ちが湧くまで、すごい長い時間がかかるときがあると思っています。さっきと同じ話になってしまうけれど、「これだったらできるかも」を見つけてやっているうちに「やりたいかも」になっていく。ひねり出すじゃなくて、出てくる。
でも、それは自然発生的に出てくるのか、というとそうでもないような気がして。
そこには何かが働いたり、きっかけがあって、それが作動するみたいな感じでしょうか。それが何なんだろう、という事がこの主催者教育でちょっと見えてくると良いかなと。

長田:それって、一つはカフェですよね。森さんたちの活動で言うとね。

森:そうそう。

長田:「やりたいことは何ですか?」っていう質問の答えが同じでも、一緒にやれるとは限らないですよね。そこはもう少し複雑で…。共通点はあるんだけど、言葉にならないところで「何か違うな」っていう感じがあるなら、それは共通点と同じくらい大切なことだと思うんです。「でも共通点でしょ」とか「でもそれがやりたいんでしょ」って念押しされてから始まっちゃうと嘘っぽくなるっことがあるんだなって、さっきの亮さんの話で思いました。
カフェのその関わりしろの多さみたいなものが、シールを貼るって仕事が存在するっていうのも関わりしろの一つのバリエーションですよね。

森:うん。そうですね。

長田:言葉で全部を定義しきれないところが大事な部分なのかなって、森さんの話を聞いて特に思いました。

「やりたい」がスルスルと出てくる場面とは

森: 作業の連続の中で、スルスルスルと糸みたいなのが出てくる瞬間もあるんですよ。
こまちぷらすでは、こよりどうカフェとこまちカフェっていうカフェを2つ運営していてその両方のカフェで赤ちゃんの見守りをしてくれている男性の方がいます。その方が、こまちが発信している内容を見て、その文章の書き方が気になるとお話ししてくださったんですね。

「こういうふうにした方がいいんじゃない?」って言ってくれて、、、確かにこういうふうに直すとすごく言葉が伝わる!とスタッフが思って、そのうち、「この文章も添削してもらえませんか?」ってお願いするようになったんですね。そしたら「いいですよ」って。
実はその方、以前そういう仕事をされていたってことがわかって、今もいろんなものを添削してもらっています。

計画してそうしたとか、本人も最初から「私はそれをやりたいんです。」とは言っていない。でも、一緒に何かをしてる中にいろんなヒントが落ちていて、それがある時急に線になって、色々なものがその人の中から出てきたり、私達の中でも繋がったりする。毎日営業してるから、それが色々な連続の中で、あちこちに散らばってる感じ。とっ散らかってる感じがいいのかな、と思っております。

安達:それ、よくわかります。主催者と参加者の関係性や距離感がほどよく、かつ良いタイミングで意見交換ができたときに、参加者にとっての「越境」というか、主催側に回る感覚が芽生えるのではないかと思いました。逆に、関係性や距離感とタイミングが適切でないと、参加者の声はクレームっぽく聞こえてうまく取り込むことができない場合もありますよね。参加者が主催者的なマインドを表現したときに、それをウェルカムできるかどうかは主催者の意識によりますね。

長田:そういう運営レベルの知恵も、言葉にしたいよね。

安達:そうですね。

自分の「受け皿」を自分でつくる

長田:一つ言えることは、やりたいことがあるのにそれをやれる受け皿がないときには、「自分で受け皿を作れるよ!」っていうことだと思うんです。主催することの一番シンプルな意味・価値だと思う。

森さんの話を掛け合わせて考えると、やりたいことも別にないし、意見もそんなに出てこないし、問題意識とか言われても別にないしっていう。じゃあ、「よかったね毎日ハッピーで」って言われると「そんなことないです」みたいな。そんな時にね、「主催する」っていうことをすると、言葉にならないものも受け止めてくれる、表現できちゃうところがあるんですよね。

「安心できる居場所」って看板に何と書いてあっても、そう感じないっていうことがあるでしょう。書いてあるのに、安心を感じない。そこで安心できた場合、その理由は多分言葉じゃない。主催するっていうことは、準備段階で声をかけたり、作業をしたり、本当にいろいろ時間があって、そこには身体的な知恵の領域につながる部分もあるんですけど、言葉にならないことも含めて、場は表現してくれるっていうか。

安達:うん。

長田: だからリアルな場を介在させると非言語のコミュニケーションも豊かになるんだけど、その非言語のコミュニケーションをみんな忘れつつある。
オンラインで十分みたいな話って、その場の機能がその程度だっていうのもあるし、感性が貧困化した結果だとも疑えますよね。貧困化した感性があればこそモニタ越しの世界の方が輝いて見えるみたいな。

五感がそこに存在できない中でのコミュニケーションとやっぱり違ってきますよね。深さもあなた次第、みたいなところもあるし、言葉がなくても、ちゃんとした意義もミッションを言葉にしていなくても、主催することで内在していたものが出てくる。「やりたいことは?」とか「強みはなんですか?」みたいな質問からは出てこない要素ってありますよね。

*次回は7月31日(水)に更新予定です

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